シン・ゴジラ(前編)

正直言って庵野監督には期待していない。

世代的にはエヴァンゲリオン世代だが、
シンジのウジウジっぷりも嫌いだし、テレビ版を最後に放り投げた感も好きじゃない。
 
セルフカバーの映画を作った時はなんで新しいオリジナルで勝負しないんだろう。
と歯痒く思ったし、なんか世間に媚びちゃったな、と思った。
 
特技監督の樋口監督にも期待していない。
平成ガメラ三部作の特技監督としてはベストな
働きをしたがローレライを観たときに人間が描けておらず
とてもつまらなかった。
 
その後、巨神兵東京に現るを観たときに
この人全然変わってねーな、と思った。
宮崎駿も良くこんなしょーもない作品に巨神兵使用の許可を出したな。
と今でも思うし、原作のナウシカに出てくるオーマを汚された気分で思い出しても腹が立つ。
 
進撃の巨人を監督する、と知った時は
しょーもねーのが出来るんだろうな、
と思って見に行かなかったが案の定のボロクソ評価で
やっぱりな、ざまぁねーな、と黒い感情を楽しんだ。
 
一方で怪獣ファンとしてはアメリカの
 
ギャレス版ゴジラ
 
の様な特撮への愛とCG技術の圧倒的迫力、
見せ方の上手さを兼ね備えた映画を見る度に
感動と悔しさを感じざるを得なかった。
 
アメリカの特撮に負けず、
ガメラ三部作、特にガメラ2を越える怪獣作品を観たい。
とずっと思っている。
 
期待はしていない。というより
期待しないようにしている。
期待すると裏切られてしまう。
 
でも
 
この記事を書いているのは
TOHOシネマズ新宿で朝8:00上映開始の回に向かう電車の中だ。
仕事がある日でも起きない時間に起き、
都内最大級のスクリーンでゴジラを観ようとしてるのは
やっぱり期待してしまっているからなのだろう。

永遠の0

 
映画は自分の祖父を知るためにかつての特攻隊の人を訪ねるというストーリー。
特攻隊の人達が語る回想シーンと現代が交互に描かれていく。
 

演出過剰をムダと取るかサービス精神と取るか

が好みの分かれるところだと思いました。
 
かつての戦友の孫をガシッと抱き締めたり、
回想シーンが終わる度に主人公達が感涙していたり
泣かしてやろうという監督の作為が少し鼻に付き
興醒めしてしまう処があります。
 
ただその分
空のシーンは綺麗だし
雲の美しさ、ドッグファイトも観ていてアツい。
 
話の全体的な流れは良かったです。
特攻隊を"神風"とは表現せず
"愚かな作戦"とはっきり言わせている処を見ると
戦争賛美とは思えない。
靖国神社に行ったことのない人には良い薬に
なると思いました。
 
 
靖国神社で特攻隊や戦場で散っていった人達の生の声の方が心に沁みる。
 
集客の面で主役の零戦パイロットを岡田准一にしたのは仕方ないけど
映画の中のキャラクターと岡田准一のキャラクター
の不一致を感じざるを得なかったです。
丁寧な、ですます調で話す岡田君より
「何があっても生きろ!」と叱咤激励している方が彼にはあっている気がする。
 
かつての教え子達を特攻隊として
目の前で失い続けて心が病んでしまっても
強そうで、好戦的な顔(に見える)だし、
特攻に行っても帰って来そうな生命力の強さを感じてしまう。
 
当時はNHK大河ドラマ、SPというアクション映画の主演をしていたからそこは仕方ないけどさ。
 
こういう役はSMAP草なぎ剛にやって貰いたいなぁ。強そうにも繊細そうにも見えるから。
興行的には地味で若者集まらなそうだけど。

男という名の絶望

男だったらこうすべき。

男だったらこれが出来て当たり前。
 
"男らしく"ありたい
でも"男らしく"生きられない。
 
自分の中にある"こうすべき"に縛られて
追い詰められていく男達
 
"男らしさ"というのは便利なツールだ。
男を操ろうとする誰かにとっては。
 
誰か、とは
男らしくない男に"男らしさ"を売る商売人
"男らしさ"をエサに男を動かそうとする女や上司
 
特に"女らしさ"に縛られたくない女達が
男に対して"男らしさ"という縛りを掛けた上で批判
を行いダブルバインドを行って来たりする。
フェミニストが"女らしさ"から開放を声高に叫んでも
男が胸の中で憎悪と反発心を募らせるのはこの為だ。
 
そんな中で素直に"男らしさ"を追求しようとする
男達は心を病んで行く。
 
弱音を吐く事は"男らしく"ないから言わない。
泣くことも出来ない。
 
自分自身が苦しい思いに蓋をしているから
他の男の苦しさも認めない。
そして"男と言う名の病"は存在しているのに
存在していない状態になる。
 
そんな"男らしさ"に苦しむ人達にとって本書は
心を和らげてくれる。
苦しみに寄り添ってくれる誰かがいる。
理解しようとしてくれる誰かがいる。
同じように苦しんでいる誰かがいる。
というだけで心が楽になります。
 
 
なんか生き難い、と思っている人は一読してみてはどうでしょうか。
 
 
 

ファインディング・ドリ-

吹き替え版で観賞しましたが妙に気になる点が多く感じました。
 
何で八代亜紀なのか。
何であんなに可愛くないベッキーやオットセイを出したのか。
2匹のオットセイは何であんなに岩場に拘るのか。
 
「治して、育てて、海に帰す」
というメッセージもやたら連呼されるんですが
シーシェパードを思い出して映画と別の部分で心が
ザワついたり。
そもそも水族館を否定したらファインディング・ニモも本作も作れなかったでしょ。
ドリーやニモの生態を把握するために水族館は不可欠でしょう。
 
あとマーリンとニモは今回必要だったのか。
タコのハンクとクジラのディスティニー、ドリ-の両親等の新キャラだけの方が脚本はスッキリするんじゃないか。
 
と、なんかチグハグに感じてしまいました。
 
面白かったのは"忘れる"という能力しかないように
見えるドリ-のキャラクターです。
 
忘れるというのは人の本質の1つだと思います。
 
悲しいことも、大切なことも忘れてしまう。
日常の中では大切な事を忘れなくてはいけないが
自分にとって大切な事を思い出す事で感じられるカタルシス。
インサイドヘッドでもこれが使われますね。
 
死んでしまった母との思い出。
苛められた時の孤独感や情けなさ。
大切な人を傷つけてしまった言葉。
自分を変えたくてもがいた時期。
自分を受け入れてくれたあの時のあの人。
 
映画のキャラクターが大切な事を思い出す瞬間、
観客の僕たちも"過去との遭遇"を体験しています。
 
大切な家族に会いたいって気持ち、分かる?
 
"忘れる"しかないドリ-だけど彼女には現代っ子には
ない能力があります。
"仲間を作る"能力です。メチャメチャどデカい能力ですよね。
少しオラにも分けてくれ。
 
そしてロリっ子ドリ-は可愛かった。
大人になるとナンヨウハギ室井滋なのに。
可愛さの欠片くらい残してあげてよ。

 

トラ・トラ・トラ!(後編)

いざ見始めると、長かった…。

ヒトラー最期の12日間に続き、この映画も
途中休憩を挟むんだね…。

感想としてはアメリカ側でもなく、日本側でもない
意外と公平な目で作られてるなー、と感じました。

アメリカ側パートは割りと淡々と、
日本側パートは作られた時代もあるのか
割りと日本人が元気(というか無邪気)です。

その中でも日本軍上層部はキリッとしているんですが
宣戦布告をする前に攻撃を仕掛けてしまったり
暗号を全部解読されていたり
アメリカ軍もその解読した暗号を上手く活かせなかったり
肝心な処で零戦の部隊を見逃してしまったりと

大きな舞台で小さなミスが大きく成長してしまうのを
目の当たりに出来ます。

戦争って思った通りに運ばないよな

という当たり前の事実を改めて認識出来る興味深い
作品でした。

そして零戦に爆破される米軍機はこの時代だから
出来たんだろーな。
というCG無しのガチ飛行機。
迫力有ります。

トラ・トラ・トラ!(前編)

以前ハワイに行ったときに戦艦ミズーリ号を見学しました。

そこに行く前はかつての敵国が日本人をどうやって
受け入れるんだろうか、妙な差別はされないだろうか。
と複雑な気持ちでした。
ミズーリ号はアメリカ人にとって靖国神社のような存在
と言われてなんとなく納得もしつつ。
ミズーリ号に乗ってガイドの日系人の方が
「あの山の向こうから零戦が○○機、向こうの方角から○○機来て…」
という話を聞いていると
真珠湾攻撃がどのくらい大規模な作戦だったのか実感出来ます。

ミズーリ号の内部は日本人向けに大戦で散って行った
若者達が恋人や母親、家族に送った手紙や写真が
展示されており、死を眼前にした人達の想いに
涙が抑えられません。

同時にアメリカはスゲーな…と思いました。
かつての敵国に対して
「私達はこんなに日本人に気を使っているよ」
というメッセージを出す事で日本人は感謝し、
その復讐心を消失させる。
イメージ戦略としては大成功でしょう。

その見学の途中でアメリカの戦闘機の展示場の
土産物売り場でこの「トラ・トラ・トラ!」が
放映されていました。