レゴムービー

主人公は常に皆と同じ行動を取ろうとするマニュアル人間(レゴブロックだが)。

自分自身がどうありたいのかよりも社会の規範らしきマニュアルを常に持ち歩いている。

しかし、友人だと思っている人達は彼をツマラナイ奴だと思っていて、まるで気にとめていない。

 

あるキッカケでブロックマスターなる世界を救う救世主に選ばれるが、今までマニュアルに頼りっぱなしなのでロクな活躍が出来ない。

 

そんな世界を破滅に追い込もうとする、おしごと大王(という悪者)から世界を救えるか、という内容。

 

思わぬ掘り出し物でした。

レゴブロックで構成された世界で、風景、炎、海の波、煙も全てレゴ。

レゴで構成された世界の映画なんて子供向き、という雰囲気も見事な脚本でむしろ大人向けに描かれています。

オープニングはマニュアル人間の主人公やその住人達がマニュアルに則した世界を賛美するミュージカル風で始まるのですが、人間が演じると露悪的になるような内容なのにレゴのキャラクター達が演じることでギリギリの毒っ気で一気に引き込まれます。

 

マニュアルだらけの世界でそれがいつの間にか自分の中で当然のものとして存在している僕自身の周りと僕自身が描かれているようで虚を突かれた感じです。

前半ではアクションもあるのでそれがちょっとレゴだらけで観難いところもありましたが。

 

後半、おしごと大王に追い込まれた主人公が見た世界。

それは主人公達が神と考えている者達なのですが物語の絡め方が非常に巧い。

父と息子の話しであり

創造性の肯定であり

レゴだけで全てを表現しようとする挑戦的な試みであり

と唸らされる作品でした。

ラストのオチも非常にお洒落でかつ楽しい。

 

X-MEN アポカリプス

うっかりハードルを下げるのを忘れていました。

ファーストジェネレーション、フューチャー&パストと良作だったけれど
アポカリプスを登場させるという規定路線にキャラクター達をはめ込むのが難しかった印象です。

 

神との対決以前に差別と偏見との戦いの方がリアルで根深い問題で
これを描いた前二作が最高過ぎました。

役者陣がミュータントのコスプレをしても気にならない物語の説得力が有った。

ファーストジェネレーションではそれが最前面に出ていましたが、
フューチャー&パストでは未来と過去を行き来するというやや厳しい設定ながらも
ラストのマグニートの演説でカバー出来ていました。

 

しかし、今回は差別と偏見が物語のキッカケ程度の扱いで推進力になるには力が少し足りなかった感があります。

どうしても取って付けた感が拭えない。

これをギリギリ救っているのはマグニート演じるマイケル・ファスペンダーの演技力で、強大な能力を隠しながら「普通の生活」を求めて社会に溶け込む努力とそこで疲弊していく姿を佇まいだけで語ってきます。

深い哀しみを背負った佇まいはそれだけで涙腺を刺激してくる。

反対にイマイチ実在感の無いのが肝心のアポカリプス。

千年生きてるのに、言葉に説得力がない。

 カリスマ性を出そうとする努力は認めるが、神の名の元にテロや他国への
侵攻、神を担ぐ事で自己の利益を最大化しようとする人間が目立つ現代の社会で、自らを神と名乗ることの「軽さ」を感じざるを得ないんです。

 

その「神」の存在が軽いが故に彼を守る四人の従者の存在も軽くなる。
よって物語の説得力で目を瞑っていた、コスプレもどこのコミコン?
て気持ちになっちゃう。

 

俺のマグニートをそんな奴等の一員にしないでくれー!

 

そしてエンジェル、ファイナルデシジョンでミュータントと人間を繋ぐ
象徴的な役割をして感動的なキャラクターなのに本作では雑魚役…。
翼を鉄に替えた姿、俺、悲しいよ。

俺のエンジェルを…(略)

 

前二作の中の一番の推しmenであるミスティーク…なんか太った?

最前線で差別と闘うミュータントテロリストとして
もうちょっとシュッとならなかったのか。
マイケル・ファスペンダーの役作りに比べると役作りが物足りない気がしてしまう。

ファッションも、それが闘う戦士の衣装なのか。
閉じ込められた檻の外で爆発や流血が有っても冷然と構えるというクールな演技をすべきではないのか。等と思ってしまう。

 

ストームがそんなミスティークを尊敬し、英雄としているのは良いがその思いの強さをもっと描いて欲しい、でないと最後の感動的な行動も軽くなってしまうよ…。

 

文句ばかりだけど良いところもありました。

クイックシルバーが活躍するシーンは音楽も最高だし、
スタッフが楽しんでいるのも伝わってくる。

 

若いミュータント達がスターウォーズを観て
「三作目は駄作だ」
と言わせるのも洒落ている。監督、分かってるんだね…。

 

そしてナイトクローラーが可愛い。
若い頃は男全員嫌いだったけどオッサンになると心余裕がでるのか。
撫で肩で弱々しい感じなのに漂う色気は何なのか。

ミスティークに対する女々しい毎度のハンクの片想いもニヤニヤしてしまう。
好きな女を諦めきれなくてウジウジしやがってお前は俺か。

 

ウルヴァリン続編の伏線を張るためだけにを出す必要あったのか、
エグセビアの髪を脱毛しなくても良かったんじゃないか、
等ありますが疲れてきたのでとりあえずこの辺で。

シン・ゴジラ(前編)

正直言って庵野監督には期待していない。

世代的にはエヴァンゲリオン世代だが、
シンジのウジウジっぷりも嫌いだし、テレビ版を最後に放り投げた感も好きじゃない。
 
セルフカバーの映画を作った時はなんで新しいオリジナルで勝負しないんだろう。
と歯痒く思ったし、なんか世間に媚びちゃったな、と思った。
 
特技監督の樋口監督にも期待していない。
平成ガメラ三部作の特技監督としてはベストな
働きをしたがローレライを観たときに人間が描けておらず
とてもつまらなかった。
 
その後、巨神兵東京に現るを観たときに
この人全然変わってねーな、と思った。
宮崎駿も良くこんなしょーもない作品に巨神兵使用の許可を出したな。
と今でも思うし、原作のナウシカに出てくるオーマを汚された気分で思い出しても腹が立つ。
 
進撃の巨人を監督する、と知った時は
しょーもねーのが出来るんだろうな、
と思って見に行かなかったが案の定のボロクソ評価で
やっぱりな、ざまぁねーな、と黒い感情を楽しんだ。
 
一方で怪獣ファンとしてはアメリカの
 
ギャレス版ゴジラ
 
の様な特撮への愛とCG技術の圧倒的迫力、
見せ方の上手さを兼ね備えた映画を見る度に
感動と悔しさを感じざるを得なかった。
 
アメリカの特撮に負けず、
ガメラ三部作、特にガメラ2を越える怪獣作品を観たい。
とずっと思っている。
 
期待はしていない。というより
期待しないようにしている。
期待すると裏切られてしまう。
 
でも
 
この記事を書いているのは
TOHOシネマズ新宿で朝8:00上映開始の回に向かう電車の中だ。
仕事がある日でも起きない時間に起き、
都内最大級のスクリーンでゴジラを観ようとしてるのは
やっぱり期待してしまっているからなのだろう。

永遠の0

 
映画は自分の祖父を知るためにかつての特攻隊の人を訪ねるというストーリー。
特攻隊の人達が語る回想シーンと現代が交互に描かれていく。
 

演出過剰をムダと取るかサービス精神と取るか

が好みの分かれるところだと思いました。
 
かつての戦友の孫をガシッと抱き締めたり、
回想シーンが終わる度に主人公達が感涙していたり
泣かしてやろうという監督の作為が少し鼻に付き
興醒めしてしまう処があります。
 
ただその分
空のシーンは綺麗だし
雲の美しさ、ドッグファイトも観ていてアツい。
 
話の全体的な流れは良かったです。
特攻隊を"神風"とは表現せず
"愚かな作戦"とはっきり言わせている処を見ると
戦争賛美とは思えない。
靖国神社に行ったことのない人には良い薬に
なると思いました。
 
 
靖国神社で特攻隊や戦場で散っていった人達の生の声の方が心に沁みる。
 
集客の面で主役の零戦パイロットを岡田准一にしたのは仕方ないけど
映画の中のキャラクターと岡田准一のキャラクター
の不一致を感じざるを得なかったです。
丁寧な、ですます調で話す岡田君より
「何があっても生きろ!」と叱咤激励している方が彼にはあっている気がする。
 
かつての教え子達を特攻隊として
目の前で失い続けて心が病んでしまっても
強そうで、好戦的な顔(に見える)だし、
特攻に行っても帰って来そうな生命力の強さを感じてしまう。
 
当時はNHK大河ドラマ、SPというアクション映画の主演をしていたからそこは仕方ないけどさ。
 
こういう役はSMAP草なぎ剛にやって貰いたいなぁ。強そうにも繊細そうにも見えるから。
興行的には地味で若者集まらなそうだけど。

男という名の絶望

男だったらこうすべき。

男だったらこれが出来て当たり前。
 
"男らしく"ありたい
でも"男らしく"生きられない。
 
自分の中にある"こうすべき"に縛られて
追い詰められていく男達
 
"男らしさ"というのは便利なツールだ。
男を操ろうとする誰かにとっては。
 
誰か、とは
男らしくない男に"男らしさ"を売る商売人
"男らしさ"をエサに男を動かそうとする女や上司
 
特に"女らしさ"に縛られたくない女達が
男に対して"男らしさ"という縛りを掛けた上で批判
を行いダブルバインドを行って来たりする。
フェミニストが"女らしさ"から開放を声高に叫んでも
男が胸の中で憎悪と反発心を募らせるのはこの為だ。
 
そんな中で素直に"男らしさ"を追求しようとする
男達は心を病んで行く。
 
弱音を吐く事は"男らしく"ないから言わない。
泣くことも出来ない。
 
自分自身が苦しい思いに蓋をしているから
他の男の苦しさも認めない。
そして"男と言う名の病"は存在しているのに
存在していない状態になる。
 
そんな"男らしさ"に苦しむ人達にとって本書は
心を和らげてくれる。
苦しみに寄り添ってくれる誰かがいる。
理解しようとしてくれる誰かがいる。
同じように苦しんでいる誰かがいる。
というだけで心が楽になります。
 
 
なんか生き難い、と思っている人は一読してみてはどうでしょうか。
 
 
 

ファインディング・ドリ-

吹き替え版で観賞しましたが妙に気になる点が多く感じました。
 
何で八代亜紀なのか。
何であんなに可愛くないベッキーやオットセイを出したのか。
2匹のオットセイは何であんなに岩場に拘るのか。
 
「治して、育てて、海に帰す」
というメッセージもやたら連呼されるんですが
シーシェパードを思い出して映画と別の部分で心が
ザワついたり。
そもそも水族館を否定したらファインディング・ニモも本作も作れなかったでしょ。
ドリーやニモの生態を把握するために水族館は不可欠でしょう。
 
あとマーリンとニモは今回必要だったのか。
タコのハンクとクジラのディスティニー、ドリ-の両親等の新キャラだけの方が脚本はスッキリするんじゃないか。
 
と、なんかチグハグに感じてしまいました。
 
面白かったのは"忘れる"という能力しかないように
見えるドリ-のキャラクターです。
 
忘れるというのは人の本質の1つだと思います。
 
悲しいことも、大切なことも忘れてしまう。
日常の中では大切な事を忘れなくてはいけないが
自分にとって大切な事を思い出す事で感じられるカタルシス。
インサイドヘッドでもこれが使われますね。
 
死んでしまった母との思い出。
苛められた時の孤独感や情けなさ。
大切な人を傷つけてしまった言葉。
自分を変えたくてもがいた時期。
自分を受け入れてくれたあの時のあの人。
 
映画のキャラクターが大切な事を思い出す瞬間、
観客の僕たちも"過去との遭遇"を体験しています。
 
大切な家族に会いたいって気持ち、分かる?
 
"忘れる"しかないドリ-だけど彼女には現代っ子には
ない能力があります。
"仲間を作る"能力です。メチャメチャどデカい能力ですよね。
少しオラにも分けてくれ。
 
そしてロリっ子ドリ-は可愛かった。
大人になるとナンヨウハギ室井滋なのに。
可愛さの欠片くらい残してあげてよ。